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追憶3

 

※各画像はクリックで拡大できます。

 

倒壊を免れた仙台市若林区にある霞目(かすみのめ)飛行場の管制塔

 

 最も被害の甚大だった地域に隣接していたため、発災当日の時点では使用不能であると見積もられており、私たちの班も当初はこの飛行場でなく、更に北に位置する青森県の八戸の施設を拠点として、活動することになると考えられていました。

 

※この管制塔が無事だった事は、多くの意味において不幸中の幸いだったのです。


全国各地から霞目飛行場に集結した様々な機関の航空機群

 恐らくこれまでの日本の歴史の中で、一ヶ所にこれほどたくさんの航空機が集結した事はないであろうと思えるほどたくさんの機体が飛行場の駐機スペースを埋め尽くしていました。

 東日本大震災の人命救助・捜索活動は、まさに日本史上最大規模の大作戦であり、その中にあっては私たちの班も、国家レベルの一大プロジェクトの末端の一部に過ぎませんでした。

 


霞目飛行場から福島第1原発へ向けて離陸する特殊任務機

 福島第1原子力発電所での放射能漏れ事故が発覚して以降、名取川以南の地域での救助・捜索活動は制限されるようになりました。

 しかし、飛行停止統制が掛かる前に現地方面の任務に従事して被曝したパイロットがいるといった噂が流れたり、原子力について素人同然の当時の首相(民主党 菅直人氏)が政治パフォーマンスのために、一歩間違えれば大惨事にさえ発展しかねない無謀な作戦を陸上自衛隊に指示しているといったような不吉な情報が飛び交ったりと、国家存亡の危機とも思えるその時の状況下にあっては、私たち最前線で任務に従事する者の「命の重み」は、既に必然的に軽視される傾向へ移行していると感じられ、不安と動揺が隠せなかった日のことを今でも思い出します。



ホワイトボードへの落書きと拳の跡(写真中央下部)

 東北以外の地域から災害派遣で現地へ来た自衛隊員の方の仕業でしょうか?私たちが寝泊まりしていた部屋の廊下のホワイトボードに書かれていた「なめんな!!東北!!」の文字と、その下部に残る 相当な力で殴って出来たと思われる拳の跡が強く印象に残っています。

 あのごく普通の平和な週末の午後に起きた未曾有の大惨事は、被災された現地の方々だけでなく、その日以降その現場に関わった多くの人々の人生にも大きな影響を与えたであろう事を実感させられた光景でした。


霞目飛行場外柵沿いの警備道路

 発災から一ヶ月を過ぎると、継続的な任務フライトの頻度は低くなり、地上での大規模な捜索活動が計画された時や、突発的に大きな余震があった際の緊急任務が中心となって行きました。

 私たちは、複雑で困難な任務に翻弄される時と、待機だけの退屈な時の状況が定着し始めた頃から、緊急の場合に備えてフライトバッグ等を持ったまま飛行場外周を歩いて気分転換するようにもなりました。

 飛行場外柵沿いの警備道路を歩いていると、よく近隣住人の方々に声を掛けられました。

 住人の方々の大半は私たちに好意的で、遠くからでも大きな声で満面の笑みを浮かべながら「ありがとうございます!」と言って下さる方もいました。

 私はそんな時、深々と頭を下げ返しながら、とても申し訳なく複雑な気持ちになったのを覚えています。

 あの震災のために現地に住む方々は物心両面において多くの物を失い、その時点においても依然頻繁に襲ってくる余震に怯える日々を送っていました。

 私は、もし自分が被災地に住む住人で災害により大きな痛手を負った状況であったとしたら、果たして他の平和な地域から業務の一環で支援に来た人々に対して、本当に心を開いて対峙する事が出来るものなのかどうか、疑問に思っていました。

 いずれ任務が終了すれば、あの運命の日以降も、それまでと何ら変わりない日常を送り続ける妻子の待つ世界へ帰る事ができる自分に、少なからず後ろめたさを感じるようになっていたのです。

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