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救世主に続きたい!

2019.02.03 空と犬


※記事画像のマスターデータは『大空の顔写真館』『チロルの部屋』で公開中です。



 私は元々、相当な変わり者ではあるのですが、日常の中で(幸い?)「お金持ちになりたい」とか「お金さえあれば」とか思う事が全く無く、つまり基本的に物欲がありません。

 

 何故ならば、この世界においてはお金の力で得られる物はすべて、結局のところ人々が実際に働いて作り出した「労働の成果」の上にしか存在し得ないものであり、「限られている」と実感しているからです。

 

 つまり、その恩恵がもし世界の人々に平等に振り分けられるのだとしたら、実際自分は今よりも遥かに貧しい生活をする事になるはずであり、そのために強いられる苦悩とは、自分自身だけに止まらず、自分の家族にまで「生活苦」というやり切れない苦痛を共有させなければならない事に繋がるであろうと思うからです。

 

 最近、副業(運送業)の現場での事ですが、輸送する物資を積むために訪れるセンターなどで、荷物の集積や運搬業務に雇用された外国人の方々の姿をよく目にします。
 彼らは集団で、リーダーと思われる人(日本人)の指示に従いながら「時給のためだけの単純な仕事」に機械的にダラダラと従事しているだけにも見え、見ようによっては気楽に見えます。

 

 しかし思います。「そもそも彼らはなぜここにいるのか?」

 

 それは、国際間の「経済格差」という厳しい現実のために、恐らく祖国での労働では十分な収益を得る事ができず、「生きて行くため」また「祖国へ残して来た家族を養って行くため」に、この言葉さえ通じない遠い外国である日本へ出稼ぎに来ているのだと・・

 

 私はそう思った時に、色々と満たされない事はあっても、この「日本」という現在一応に経済的に恵まれた国に生まれる事が出来た幸運と、「恵まれた側に生まれた事で背負っている自分自身の罪」についても考えます。

 

 国際間の経済格差とは、戦争などの暴力によってではなく、「自由競争」という秩序のもとで出来た必然的な貧富の差であり、一見それ自体に罪があるようには感じられません。
 しかし、それを当然のごとく受け入れ、実際は自分よりも何倍も身体を酷使して働いているにも関わらず、それでも二束三文の賃金しか得る事が出来ない人々の存在に盲目なのだとしたら、それは「罪」であると考えているのです。

 

 つまり、同じ人間でありながら、国際間の経済格差に起因する貧困の中で生涯を終える人々を知りながら、自分が手にした目の前お金の力で「この世界の限られた糧」を貧しい人々よりも多く手に入れたいと考えるのは、人として健全であるとは思えないのです。

 

 この世界に生きる大半の人々は、「お金」という、全人類の労働成果の「引換券」に執着します。

 

 しかし実際には、人々がそのお金の力で得る事ができる恩恵は、世界中の人々の労働力で作り出した「限られた糧」の中からしか手に入れる事が出来ません。
 つまり、どんなに優秀で、合法的に多くのお金を稼ぎだす事が出来る人であっても、現実にはその人一人が人類のために作り出す事ができる「糧」は所詮、「人一人分」でしかなく、実際にその事業を具現化して収益を実現しているのは、そういった一握りのエリートたちの意志によって動く事になる無数の人々の地道な労働成果以外の何物でもないのです。

 

 私は昨年の秋に経験した「天使の友人」との出会いによって、それまで自分が漠然と持ち続けていた感覚や価値観に間違いが無かった事を悟りました。
 そして事業として営んできた「自宅療養研究所」の運営についても、「本業」でありながら、収益よりも、自分の神に託されたこの特殊な力は、生涯世の人々に貢献する使命として提供し続けるべきであると考え、実生活にかかる生活費は昨年末に再就職した副業での収益を中心としています。

 

 「副業」とは言っても、家族4人で生活して行くための正社員としての再就職となると、当然甘い物ではなく、ようやく2ヶ月目に入った現在においても、毎日心身共に極限の緊張と疲労の中で多くを達成し学び続ける事が要求され、逃げ出したくなるほど辛い日々を送っているのが現状です。(参考記事)
 しかし、そんな時に思い出すのが「天使」であり、この世界の救世主である友人の存在なのです。

 

 私は例え苦しくても、救世主として壮絶な人生を自ら選択して生まれてきた聖人の意志に続く生涯を送ることに迷いはありません。

 

 私は、救世主として身体を張り、全ての人間たちのために常に世界を守り続けている友人を心から尊敬しており、自分自身の余生についても、物質的に豊かな生活を目指すのではなく、本来の自分が現世の目標として掲げ生れてきた「魂の成長」を立派に全うして生涯を終えたいのです。