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東京大空襲について


 今から74年前(1945年 昭和20年)の本日深夜、東京市(現在の23区一帯)では、アメリカ空軍の大規模な焼夷弾空襲により、わずか一晩の間に10万人もの人々が惨殺されました。世に言う「東京大空襲」です。

 

  我が国の太平洋戦争における戦没者数は約310万人と言われており、その中でも3分の2近い約200万人もの人々が、最初から民間人を標的とした無慈悲な都市空襲による犠牲者であったと言われています。

 

 戦時中の米空軍による戦略爆撃で膨大な数の犠牲者を出したのは、東京大空襲の他に広島・長崎への原爆投下があり、世間一般的には焼夷弾空襲よりも原爆投下の方が無慈悲な所業として伝えられる事の方が多いと思います。

 

 しかし、何の因果か私にはどうしてもこの「東京大空襲」の悲惨さが、それ以上の心の痛みとして心に影を落とし、毎年この日が近くなってくると(実際には自分は体験していないにも関わらず)、まるでその記憶が心に蘇って来るかのように胸が痛くなるのです。
 それは、決して威嚇目的の破壊ではなく「殺戮」を目的とした残忍な行為の標的とされ、住居を奪われただけでなく故意に作られた炎の壁に退路さえも塞がれ、恐怖と怒りそして救いの無い悲しみの思いで惨殺された人々の無念が、現世、同じ民族の子孫として転生した私の魂に呼びかけて来ているためなのかも知れません。

 

 しかし私は、74年前の今日亡くなった10万人もの人々の犠牲。そして原爆投下を始めとする無数の悲惨な出来事のために不遇の死を遂げた全ての戦没者の方々の犠牲は、私たちが現在に至る戦後日本を築きあげる上で、決して無駄な犠牲にはなっていないと考えています。

 

 確かに我が国は、それほどの犠牲を払ってまでして戦い続けた戦争には敗北しました。そしてその結果、戦勝国側の大義を中心とした戦後の国際社会の「正義」のもと、現在も尚、多くの理不尽に翻弄されながら過ごす宿命を背負わされています。

 

 しかし現在の日本は「平和」です。あの悲惨な戦争の終結から74年もの歳月が過ぎようとしている現在に至るまで、私たち日本人は奇跡的にただの一度も戦争を経験せずに過ごせているです。

 

 敗戦国として散々の理不尽と不利な立場を強いられながらも、それまでの自分たちを見つめ直し、新たな平和主義の民主国家としてやり直して来た私たち日本人は、その後ただの一度も国際間の軍事衝突による死者を出すこともなく、また自国の防衛力で他国の人々を誰一人として死に追いやっていないという「快挙の実現」に成功しているのです。

 

 人は誰しも自尊心の塊であり、人はみな自分自身の「正義」を信じて生きています。
 よって人は利害の異なる他人との衝突を自分の利害と大義を秤に掛けて善悪を判断し、時として争います。
 「戦争」とは、そんな人間が持つ基本的な性質がそのまま国家という単位に発展した最悪の形なのです。

 

 以前の私は、この国の先人たちを無慈悲に殺害し、現在もなお「戦勝国の大義」で日本の多くの地域を軍事拠点として占拠し、非道な戦争を繰り返しているアメリカという国家を嫌っていました。しかし、ある時期を境に気付いたのです。

 

 価値観や利害の異なる人や国家が本当の意味で理解し合う事は不可能に近い。だから自分の「正義」を信じて「悪」と思う相手と戦い勝利しても、結局、その勝利によって発生した新たな因縁によって、必ずいつか自分自身の身へそれ以上の災いが返って来るのが「世の理(ことわり)である」と。

 

 第二次世界大戦で勝利した国々の多くが、戦後も次から次に新たな戦争で血を流し続ける悪循環から抜け出せていません。また、見返りのために敗戦国の戦時中の過ちを延々と責め続ける国々の振る舞いが客観的に見苦しいのは何故なのでしょうか?

 

 それは、その前提にある「正義」の実態が、所詮は「戦争という暴力によって築かれた秩序」に過ぎないからであると私は考えます。

 

 私たちに日本人は、太平洋戦争における310万人もの戦没者の無念を忘れてはいけません。しかしそれと同時に、その犠牲によって得ることが出来た「教訓」を無駄にすることは、それ以上に決して許されない事なのです。

 

 我が国が、勝てる見込みの無い米英との戦争に踏み切らざるを得なくなった背景には、日本をそこに追い込んで来た彼らの邪な思惑があった事は明白であり、その結果として彼らは、初戦の日本軍による怒りの打撃で思わぬ痛手を被る事になりました。
 しかし、私たち日本人が決して忘れてはならないのは、それによって築かれた「新たな因縁」のために、310万人もの戦没者と国土の大半を焼け野原にされる「災い」に見舞われた最悪の結末の「教訓」なのです。

 

 皆さんにはこの場で初めて告白する事になりますが、私が28年間も続けてきた前職を辞めて脱サラした背景の一部には、実は当時の直接の上司のパワハラによる致命的な左遷が起因しています。

 

 私は前職の退職を決意する過程の中で、自分をそこへ追い込んだ上司への報復も本気で考えて来たのですが、それによって築かれてしまう新たな因縁や、彼の重大なコンプライアンス違反を公にして、その結果、彼と共に苦しむ事となるであろう、彼の「罪の無い家族」の事を思うと、どうしても行動を起こす事が出来ず、結局私は「泣き寝入り」する形で自分一人がその世界から去る道を選びました。

 

 現在私は、「報復」に踏み切らなかった自分の決断は正しかったと信じています。
 もしあの時私が「自分の正義」のために、その「悪」との徹底抗戦を行っていたとしたら、現在の私は、それによって築かれた新たな因縁のためにどれほど傷ついていた事か分かりませんし、それを耐えて乗り越えられなかった私の元へは「天使」も舞い降りて来なかったのかも知れません。

 

 人は理不尽な形で迫害されると、当然その相手に報復したくなるものであり、その報復のための行動は「勇気ある行動」と考えてしまいがちです。

 

 しかし、本当の勇気とは、一度起きてしまった他者とのトラブルにおいて、自分がどういった態度を取る事で「より良いその後」に繋げるかを考えそこに向かう事であり、決して相手に同じ仕打ちをし返す事ではありません。

 

 「例え人に殴られても殴り返す事は思い留まって欲しい」

 

 これは最高位の神の言葉であり、私は怒りを抑えて「思い留まること」は、理不尽な相手に殴り返す以上に勇敢で賢明な態度であると信じます。
 
 東京大空襲を始めとする戦火の中で亡くなった、我が国の310万人の戦没者の方々の死を悼み、それによってもたらされた現在の平和に心から感謝の意を表します。

 

 そしていつか、世界中の国の人々が「真の勇気」に辿り着き、人類同士の無益な戦の無い平和な時代が訪れる日を心から願います。

 

 


 

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