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いつでも神様は見ている!

人は時に悲しい性質を持っています。

社会の一員としてはとても立派で、人目を引く奉仕やボランティア活動などの場では一生懸命なのに、人目を意識しない日常生活の中では、むしろそれとは真逆の悲しい行動を無意識に取る人たちがたくさん居ます。

路上に唾を吐き捨てたり、タバコの吸い殻やゴミを何の躊躇も無く路上に捨てるような事をする人たちの行動は、多くの場合恐らく無意識で悪意が無い分、実は余計に救いが無いのです。

 

今、世界では「環境保護」のために、不法投棄されるプラスチック製のストローを環境にやさしい素材に変えて行こうとする動きが盛んになっているそうです。

一見これは「良いこと」です。しかし、私はなぜその「動き」が、環境破壊という私たち人間がこの地球に対して行ってきた「過ち」を反省し、それ自体を繰り返させないためのものではなく、「繰り返される悪行を前提とした対策」であるのか理解できません。

 

神様はこういった「人」の悲しい習性によってこの地球環境が荒んで行く事を憂い、また「本当の正しさ」について考えない事が「当たりまえ」になってしまっている「人間社会の現状」をいつも悲しい目で見つめている事を私は知っています。

 

私は子供の頃から、いつでも私たちを見守ってくれている神様の存在を強く感じていました。

私の心の中には、世間で言うどの宗教にも当てはまらない清く正しく力強いやさしい神様がいつも居て、私が良いことをすれば微笑み、悪い事をすれば悲しい目をして来ました。

 

だから、私はそのやさしくて大好きな神様にいつでも笑っていて欲しくて、人の見ていない場所でほど「良いこと」をするように心掛けて生きて来たのです。

人はどんなに苦しく、他人や社会のために尽くす余裕など全く無いと思える境遇にあっても、実際は日々の心掛け一つで、人や社会のために立派に貢献出来る事が無数にあります。

 

これはその一環ですが、私は子供の頃から自分の家だけではなく、出先でもトイレ等を使った際は必ず「元よりもキレイにしてから出る」よう心掛けています。

理由は二つ。

一つは、それが毎日簡単確実に続けられる「社会貢献」になるからであり、もう一つは、「人のため」になる事を続けている限り、神様がいつでもやさしく微笑んでくれるからです。(^_^)