タイムリーパー

※この作品はフィクションです



 

  何で今日に限ってこうなんだ・・ 

 

 つり革を握る汗ばんだ右手を見つめる真司の表情は固く、発汗は右手だけでなく全身に及んでいた。 

 

 朝のラッシュに被るこの時間帯の山手線は真冬でもほとんど例外なく窮屈で暑苦しかった。

  しかし今真司がかいているこの汗の原因は満員電車の熱気によるものではなく、明らかに体調の悪化によるものだった。 

 

 2、3日前からキツいと感じない程度の微熱は続いていた。しかし今朝まではそれ以外に風邪らしい症状などは一切無かった。

それが、朝目覚めてベッドから起き上がろうとした瞬間、今まで経験したことのない不思議な感覚の伴う目眩に見舞われた。

  この最悪の体調はその直後から続いているのだった。 

 

 体中が暑くて時々吐き気がする。

  たまに電車の中でスマートフォンの画面に集中し過ぎて軽く酔ってしまう事があるが、この症状はそれとよく似ている。

  しかし、明らかに電車に乗る前から始まっていたこの症状の原因が乗り物酔いと関係のない事くらいは真司にも分かっていた。

  

  真司は無理して家を出てきた事を後悔しつつも、今日これからやらなければならない一日のスケジュールの事を思って溜息をついた。 

 

 今日は真司の通う高校で目指している大学受験のために欠かせない大事な模試が予定されていた。 

 

 こんな調子じゃあ・・・!!? 

 

 その何の前触れもなく発生した閃光に真司の視界は一瞬真っ白な闇に閉ざされ、呆気に取られた真司は徐々に視力が回復してくるまでの間、完全に思考力を失ってしまった。 

 

 落雷か!?・・でも音なんて・・・・?? 

 

 その閃光の後、真司はそれが何であったかという事よりも、同じ車両に乗っていた他の乗客が誰一人としてその事を気にしている様子がない事を不思議に思った。 

 

 腑に落ちない真司は改めて周囲を見回してみて、一つの事に気づいた。 

 

 いつも通り会社に出勤するサラリーマンや通学途中の学生達で溢れかえる山手線の車内ではあったが、どういうわけか今日は真司の知った顔が一つもなかった。

  真司は朝の通学電車が乗車時間や乗り込む位置を変えない限り、大体似たような顔ぶれに落ち着く傾向がある事を知っていた。そして真司自身、今朝も同じようにそれをやっていたはずだった。 

 

 真司は一瞬、自分が乗る電車を間違ってしまったのかも知れないと思い、遅刻に対する懸念から間違いであってほしいと願った。 

 

 しかし、周囲を観察すればするほどその懸念は真逆の恐怖へと変化して行き、遅刻でも欠席でも構わないから今自分の目の前で起きているこの状況が「どうか夢であって欲しい」と心の底から願うようになって行った。 

 

 真司の乗る車両の同乗者はいつもとは裏腹に、誰一人としてスマートフォンや携帯電話らしい物を手にしてはおらず、人々の服装や眼鏡等のファッション性等にも明らかな違和感がある。

  中吊広告に載っているモデルやタレントについても誰一人として真司の知っている人物がいないし、週刊誌の広告に列挙されているニュースにつては知らない事ばかりだった。 

 

 絶対何かおかしい・・ もしかして、「モニタリング」か何かじゃ?・・  

 

 真司はこれがテレビの企画か何かであるなら、まんまと騙されてやってもいいと思った。 

 

 しかし芸能人でもない一般人の自分一人を騙すのに、テレビ局がここまで手の込んだ演出に投資する事などあるはずがなかった。 

 

 混乱する気持ちを落ち着かせようと車窓の外を見渡せば、そこには自分の記憶と明らかに構成の異なる街並みが延々と広がり、そして事もあろうに絶対にあるはずがない、歴史的文化財らしき巨大な城の天守閣までがはっきりと視界に飛び込んで来る。 

 

 この状況は何なんだ?

  お前は一体誰なんだよ!??

  真司は目の前の中吊広告の中から微笑みかける、見たこともないアイドルらしき少女に向かって心の中で叫んだ。

  

  広告の少女は確かに可愛かった。しかし明らかに何かが違った。 

 

 最新のファッションやメイクの事は真司にはよく分からない。しかし、2枚の写真を見せられて現代と昔のアイドルを見分けろと言われれば、それ位は感覚的に分かる。 

 

 それはその名前も知らないアイドルのファースト写真集の宣伝広告らしく、その記事には現在16歳であるというその少女の生年月日も記されていた。 

 

 お前、オレより年下なのに「昭和生まれ」だっていうのか?・・・ 

 

 中吊広告から目をそらした真司は、視線の先の窓ガラスに映った自分の姿を見て愕然とした。 

 

 何だよコレ!?・・ 

 

 通学のためにブレザーの制服を着ていたはずの自分がどういうわけか、デニムのノースリーブベストとハーフパンツに身を包んでいる。

  おまけにそれらの服はどう見ても自分の所有しているものの中には存在しない見たこともないものだった。

  真司は自分の頭髪が金色に近い茶髪に染められている事にも気づいたが、それさえも全く身に覚えのない事だった。 

 

 もはや完全に言葉を失った真司は、ただ大きく目を見開いたままその場に立ちすくみ俯く事しか出来なくなってしまった。 

 

 昔からマンガとかでよくあるタイム・スリップの類のタイム・リープという現象の事を真司は思い出した。

  もちろん現実にはそんな事があるはずはないと思っていた。まして身分自身に・・ 

 

 しかし・・ 

 

 今オレの身に起きている現実はそのタイム・リープの域さえ越えてるような気がする・・ 

 

 オレ、一体どうしちまったんだよ・・ 

 

 真司は車窓に映るまるで別人が乗り移ったような容姿の自分に小声で呟いた。 

 

 

  うわーっ!!! 

 

  

 

 突然ベストの胸ポケットの中で震え出した物体に真司は驚き、思わず声に出して叫んでしまった。

  周囲の人々は一瞬怪訝な顔をするも、自分自身に何の影響もない事が分かると、それぞれが向かい合っていた新聞や雑誌の世界へ戻って行った。 

 

 胸ポケットの中に入っていたのはポケット・ベルだった。

  平成生まれの真司が実際のポケベルを手にしたのはそれが初めてで、根本的に使い方を知らない真司はそれが何故動き出したのかは分からなかった。

  アラームなのか?それとももし誰かが呼んだのだとしたら着信履歴とかが残っているかも!

  しかし、携帯やスマホより小型の本体に付いているボタンのどれを押してみても、そのさらに小さなパネルには意味不明な数字の羅列しか表示させる事ができなかった。 

 

 百均の電卓並みだな・・

 パソコンに近い機能を持った高性能なスマートフォンや携帯電話しか知らない世代の真司にとって、そのシンプル過ぎる過去の通信機器はある意味衝撃的だった。 

 

 

  「次は天王寺に止まります」液晶モニターのない車内に停車駅のアナウンスが流れる。 

 

 その明らかに山手線の路線上には存在しない駅名を聞き流しながら、真司は窓の外の電波塔らしき建造物に目をやった。 

 

 あれは通天閣じゃないか!!

 

  中学の修学旅行で関西方面へ行った事のあった真司は大阪で観た通天閣の事を覚えていた。 

 

 真司はその駅で電車を降りる事にした。決してそこで降りたかったのではなく、これ以上自分自身と接点のない世界に流されて行くのが恐ろしかったからだった。 

 

 

  大阪環状線天王寺駅か・・ じゃあ、さっき見たのは大阪城っだったっていうのか? 

 

 駅のホームに降り立った真司は今現在自分が置かれている異常な状況を再認識した。 

 

 とりあえず駅の外へ出ようと出口へ向かった真司は、自分が改札を通過できる立場なのかどうか不明である事に気づいた。

  先ほどまで確かに肩に掛けていたはずのパスモ、財布、スマートフォンの入ったバッグはどこへ行ってしまったのか分からない。

  そして、一切の理由が分からないまま まるで一発屋のお笑い芸人のような格好をしている今の自分にあるものは、何の役にも立たない旧式のポケット・ベルだけだった。  

 

 チクショウめ!財布ぐらい持っとけよ・・理不尽過ぎる状況に腹を立てながら真司はベストとパンツのすべてのポケットを探った。

  

  真司はパンツの右ポケットから折れ曲がった1日限り有効の乗車券を探り出した。

  

  180円区間か。・・真司は今自分が降りようとしている駅がその180円区間以内である保証がない事に気づいた。 

 

 今の自分には現金が一銭もない。もしこの切符が料金不足だったらどうすればいいんだ? 

 

 真司はしばらく考えた末、最初から駅員に素直に事情を話して保護してもらうのが一番だという結論に達した。 

 

 そもそも東京にいたはずの自分が今大阪にいる理由自体、当の自分にさえ分からないし、駅か警察を通して親と連絡が取れれば自分の身元が証明出来るんだ。 

 

 

  駅員と話すために改札脇の案内所に向かった真司は、職員に話しかけるより先にカウンター上にあった時計に目を奪われて足を止めた。 

 

 1995年9月7日?・・

 間違いだろ?95年ってオレが生まれる前の年じゃないか。 

 

 真司は右手に持った当日券の日付を見て更に愕然とした。 

 

 当日券に記されていた「当日」とは、カウンター上の時計と同じ1995年9月7日を差していたのだった。 

 

 真司はこの瞬間、自分の中で徐々に受け入れられつつあった「自分が何らかの理由で時間と空間の両方を瞬間移動してしまった」という恐ろしい認識を完全に「事実」として受け入れざるを得なくなってしまった。 

 

 今オレがいるこの世界にオレはまだ存在していない・・ 

 

 この世界にオレの身元を証明できる人間はいないんだ・・・ 

 

 真司はしばらくの間ショックで何も考える事が出来なくなってしまった。

  ただ一人券売機前のベンチに座って随分長い間、目の前を行き交う名前も知らない大勢の人々の姿を見つめていた。 

 

 この人達は、今まで映画やドラマの中でしか見る事のなかった20世紀に生きてる人達だ。 

 

 この人達は東日本大震災や福島の原発事故の事を知らないんだ。

  ・・でも確か少し前に阪神大震災を経験してるはずだ。この辺りは大丈夫だったのか? 

 

 頭の中を廻る思考は今の真司にとってあまり重要でないことばかりだった。 

 

 一刻も早く何とかするべきなのは分かっていた。

  しかし今の自分にはこの「現実逃避」に割く時間もある程度必要であるという事も真司には分かっていた。 

 

 

  自分がタイム・トラベラーの類だと語るとかえって不利益になると判断したした真司は、とりあえず駅の外へ出てこれからの事を考えることにした。 

 

 真司は祈るような気持ちでゲートの投入口に乗車券を通した。 

 

 頼む180円で足りてくれ!!

  現金を一切持っていなかったその時の真司には料金が足りなかった際に打つ手が無かった。 

 

 周囲にいた誰もが注目するほど大きなブザー音と共に、真司が通過しようとしていたゲートの出口扉が閉まった。 

 

 チクショー!!

  真司は反射的に出口扉を乗り越えて駅の出口へ向けて走り出した。 

 

 「止まりなさい!!」 

 

 案内所にいた駅員が大声で叫んで、持っていた警笛を吹いた。

  すると、状況に気付いた2、3名の職員が真司の後を追いかけ走り出し、どういうわけか騒動を目撃していた5、6名の野次馬まで加わって逃げる真司を全速力で追いかけて来た。 

 

 「チカンか!?」 

 

 「カッパライや!!」 

 

 「何やとぉ!?待たんかガキャー!!!」 

 

 野次馬たちが憶測で騒動を雪ダルマ式に大きくして行く。

  冗談だろ!?真司は逃げながら自分の耳を疑った。 

 

 職員たちは真司が駅ビル出口を出た突き当りの公園まで走ると追跡を諦めたが、10人前後にまで増えた野次馬たちは全く怯む事なく、親の仇でも追い詰めているようなテンションで真司を追いかけてきた。 

 

 何てヒマな連中だ!?便乗してるだけじゃないか!! 

 

 「待たんかいわれりぁー!!!」 ヤクザ映画か!? 

 

 こいつらホントに一般人か!?

  今にも懐に忍ばせた拳銃でも出して来そうな迫力に真司は度肝を抜かれた。 

 

 捕まったら殺される!真司は公園を抜けて動物園沿いの長い下り坂を全速力で走り抜けた。 

 

 動物園入口の反対側は通天閣を中心とした無数の店舗群と大勢の人で賑わう繁華街に面していた。

  

  ここへ逃げ込めば!! 

 

 真司は大通りから少し離れた店舗群の路地の一つに飛び込んだ。 

 

 

  開店前の仕込みを終えた西宮は新聞を読みながら一服していた。 

 

 西宮は半開状態のシャッター越しに店脇の路地に飛び込んで来た人影を見落とさなかった。

  少し遅れて店の前を大勢の男達が何やら物騒な事を喚きながらドタバタと駆け抜けて行く。 

 

 1km以上も全力疾走で逃げてきた真司は過呼吸に陥りそうなほど息を切らせその場に仰向けに倒れ込んだ。

  これほど全力で走ったのは部活でサッカーをやっていた中学時代以来だった。

  急に走るのを止めたため、真司の全身の毛穴からは滝のような汗が流れ出す。

  

  「暑い!!・・なんでこんなに暑いんだ?」 

 

 至るところから壊れかけの電気シェーバーのような騒音が耳に飛び込んで来る。

  異常にうるさくて耳障りな音だ。

  ・・蝉の声か?でも夏の頃に聞いてる奴とは違う種類だ。

  クマゼミっていう奴か? 

 

 真司はこの世界が今朝まで自分のいた冬の東京とはほぼ逆の季節である事を思い出した。

  

  「誰やお前!?」 

 

 くわえタバコのままシャッターをくぐって店から出てきた西宮は、ダンボールと発砲スチロールに埋もれて倒れている真司に唐突に尋ねた。 

 

 一見不愛想で強面の西宮の迫力に真司は驚いて跳ね起きた。 

 

 「・・す、スギ。スギって言います!!」 

 

 直立して震える声で即答する。 

 

 何言ってんだオレは!!? 

  

  真司には動揺すると考えがまとまらないまま、咄嗟に頭に浮かんだ事をそのまま口に出してしまう癖があった。 

 

 その時の真司の胸中にはたまたま、「この世界で自分の本名を名乗るのは賢明か?」という懸念と、「自分の現在の服装はまるであの一発屋芸人そのものだ」という思考がよぎっていただけだった。 

 

 「ふーん。スギか・・」 

 

 西宮は大きくタバコの煙を吐き出しながら動揺して直立不動する真司の姿を興味深そうに眺めた。 

 

 「お前、さっきのおもろかったで。何かジャッキー・チェンの映画さながらやったなぁ!」 

 

 西宮は笑みを浮かべ少し吹き出しながら言った。

  

  「あっ、は はい・・」 

 

 一気に緊張から解放された真司は、思わず照れ笑いしながら右手で耳の後ろを掻いていた。

  

  真司は質問を通して自分の何かを見極めようとした西宮の心が読めた気がした。

  

  ・・とりあえず「合格」って事なのか? 

 

 

  真司はこの世界での自分の名前を「スギ」で通す事にした。 

 

 少なくとも西宮は自分が「21世紀の東京から来た佐々木真司」である事まで話さなければ、受け入れてくれない人間ではないと分かった。 

 

 

  西宮はこの商店街に数多くある串カツ店の経営者の一人で妻子は無く歳は還暦に近かった。

  

  真司は西宮に些細な事がきっかけで無賃乗車してしまい追われていたこと。そしてある事情から自宅や自分の住んでいた街に帰れなくなってしまったことを打ち明けた。 

 

 西宮は真司にそれ以上の事を尋ねようとはせず、帰る場所を失った真司を自分の串カツ店に住み込みで雇用してくれた。 

 

 真司は西宮の店を手伝いながら「スギ」として、その自分が生まれる前の世界での生活を開始した。 

 

 当然、選択の余地があった事ではない。しかし、その日々の中で真司が経験する事は何もかもが新鮮でだった。

  そして真司は、串カツ屋の店員として送る日々の中に、型にはめられたレールの上をただ必死に進んでいた頃の日常からは決して得られなかった「温かさと充実感」を徐々に見出すようになって行った。 

 

 

  真司が西宮の店に住み込みを始めてから三か月が過ぎた。 

 

 この頃になると真司は、店の常連客は元より地域の人々とも大いに打ち解け、多くの人に「西さんの店のスギちゃん」と呼ばれるようになっていた。 

 

 

  「ほな、よろしゅうなスギ」 

 

 「はい西さん」 

 

 西宮の店は出前の発注も受けており、出前の配達は真司の担当となっていた。 

 

 今夜も真司はいつものように揚げたての串カツを手慣れた手つきで素早く包装し、自転車の出前機に積み込んで店を出た。 

 

 季節はもうすっかり冬になっていた。 

 

 吐く息は白く底冷えする。しかし今夜はいつもより冷え込んでいる分空気も澄んで、ライトアップされた通天閣がいつも以上にきれいに見えるような気がした。 

 

 配達を終えた真司は真っすぐ店には帰らず、無意識に街の高台にある公園に立ち寄っていた。 

 

 真司は見晴らしが良く空が大きく見えるこの場所が好きで、仕事の合間に一人になれる時間が出来るとよくここへ来ていた。 

 

 真司はいつもの場所に自転車を止めると公園の端の通天閣がよく見えるブランコに腰かけた。

  

  関西と関東の文化はあらゆる分野で微妙に異なり、通天閣の派手なイルミネーションは関東生まれの真司にとってはとても斬新だった。

  ブランコを漕ぐと、ちょうど目の前に位置している通天閣が真司の視界の中で大きく揺れて、その目まぐるしいイルミネーションは、まるで色とりどりの花火を見ているような錯覚を与えた。 

 

 真司はブランコを止めて東の空から顔を出し始めている月を眺めながら思った。

  

  オレがこの世界に来る前の東京も冬だったな・・ 

 

 あのまま元の世界に居れば、今頃は大学入試と高校の卒業式が終わった頃か。 

 

 オレは「行方不明」って事になってるんだろうけど、さすがにこれだけ時間が経てばもう死んだって思ってる奴も多いんだろうな・・ 

 

 思わず漏れる白い溜め息に色鮮やかな通天閣も霞んで見える。 

 

 オレはこのままずっとスギとして生きて行くしかないのか・・ 

 

 真司がこの場所へ来て考える事はいつも自分の身の上の事と「これからの事」ばかりだった。 

 

 正直、自分を救ってくれた恩返しのためにこれからも西宮を支えて行きたいという気概はあった。

  しかしそれは自分がこの先一生、串カツ屋の店員を続けて行かなければならないという事にも直結していた。 

 

 真司は「この世界の住人でない」自分自身の境遇について深刻に考えるようになっていた。

  

  自分に過失があった訳じゃない。

  しかし実際この世界に「存在しないはず」の自分は、この世界に居る限り一生、運転免許はおろか住民票さえ取得することができない。 

 

 社会的に身を立てて行く道が閉ざされている以上、オレには他人の事業を手伝って行く事でしか生きて行く道がないんだ・・ 

 

 しかしその反面、真司は決して口に出す事のない西宮の気持ちもよく分かっていた。 

 

 西宮は出来る事なら後継者のいない自分のためにも、ずっと真司に留まって欲しいと願っているはずだった。

  しかし、真司を「家出人」だと思い込んでいる西宮は、まだ若い真司の将来のためには一刻も早く元の生活へ戻してやらなければならないとも考えてくれているようだった。 

 

 西宮は決して店が暇な訳でもないのに頻繁に真司に休暇を取らせようとするが、その理由はどう考えても真司を実家に帰宅させ、家族と和解させるきっかけを作らせようとしてくれている以外に考えられなかった。 

 

 真司はそんなまるで実の父親のような西宮の思いに心から感謝していて、そしてまたどこの馬の骨とも分からない自分の事を温かく受け入れてくれたこの街の人々のことも大切な家族のように思い始めていた。 

 

 しかし、そんな彼らと自分の間にある決定的な「溝」は真司にとってあまりにも深刻であり、その事実を誰にも打ち明けられない葛藤は、真司の心にいつも暗い影を落とし続けていた。 

 

 「どうしたらいいんだよ・・」 

  

  店まで押して帰る自転車のハンドルは氷のように冷え切っていた。 

 

 

  再び夏が訪れた。 

 

 その日、西宮と真司の串カツ店は定休日だった。 

 

 西宮は朝食を済ませると「大事な対局があると」言って、いつもの「飲み仲間たち」と会いに近所の将棋クラブへ出掛けた。 

 

 真司は明日以降の店の仕込みを終えると、家電でも見に梅田の「ヨドバシカメラ」へ行こうと、天王寺のほぼ真逆に位置する「大阪」を目指して大阪環状線に乗った。 

 

 それはあまりにも突然の出来事だった。 

 

 車内の冷房が十分過ぎるほど機能しているにも関わらず、真司は自分のつり革を握る右手が汗ばんでいる事に気づき目眩が襲ってきた。 

 

 あの日と同じ症状だ!! 

 

 また飛ばされる・・ 真司は直観的に確信した。 

 

 真司の視界がゆっくりと白い闇に閉ざされて行く。

  

  ??・・ 何故こんなにゆくりと?  

 

 真司は「あの日」の状況と一つだけ違うその理由に気が付いた。 

 

 白い闇に閉ざされていく視界の中に、あの日から今日までの真司の記憶がビジョンとなって走馬灯のように投射されている。 

 

 信じられない・・ しかし真司の目にはこの一年の間、自分が辿ってきた記憶のビジョンがまるで映画でも観ているようにハッキリと見えた。 

 

 しかしそのビジョンも白い闇によって少しづつ確実に見えなくなって行く。 

 

 野次馬達から走って逃げる真司 

 

 西宮との出会いの場面 

 

 よく通った公園から見える青い空 

 

 旨かった西さんの串カツ 

 

 気さくで本当に良くしてくれた近所の人たち 

 

 密かに気になっていたあの娘の笑顔 

 

 色々な顔を見せた通天閣・・・ 

 

 それらの一つ一つが真司の心に、まるで昨日の出来事であったかのように鮮明に蘇っては通り過ぎて行く・・ 

 

 真司の視界が完全に白い闇に閉ざされるのと同時に、真司は猛烈な睡魔に襲われた。

  

  真司は遠のいて行く意識の中で必死に正気を保ちながら叫んでいた。 

 

 待ってくれ・・ 

 

 オレはまだ誰にもさよならを・・

 ありがとうって言えていないんだ!!・・ 

 

  ・・頼む・・待って・くれ・・ 

 

 真司の意識は白い闇の中に沈んで行った。 

 

 

  「次はぁ高田馬場でぇすっ」 

 

 その何となく聞き覚えのある声と言い回しに真司はハッとして意識を取り戻した。 

 

 真司は先ほどまでと同じように走る電車の中で吊革を握って立っていた。 

 

 しかし、目の前に2つの液晶モニターがある事に気づいた真司は、右側の画面に表示されている路線図に言葉を失くした。 

 

 山手線品川行・・ 山手線!!? 

 

 左側の画面には見覚えのあるテレビCMが流れている。 

 

 帰って来たんだ!!

  

  状況を理解した真司は無言のまま両手を強く握り締めた。 

 

 「!!・・」  

 

 モニター下のドアガラスが姿見となって、自分が「あの朝」の容姿に戻っている事に気づいた真司は、右肩に掛けていたバッグを手に取り中身を確認した。 

 

 パスモ・財布・スマホ・教科書にノート!!

  一年前の微かな記憶を辿り所持品がすべて揃っている事を確信する。 

 

 興奮で何も考えられなくなってしまった真司は、しばらくただ窓の外を見つめて過ごし、車両が自宅の最寄り駅に着いた所で電車を降りた。 

 

 駅を後にする電車のドアが閉まる直前、ホームのスピーカーから懐かしい発車メロディーが流れる。

  

  一年振りに聴いたその曲に真司は思わず涙ぐんだ。 

 

 真司はこの時になって初めて自分が元の世界へ帰って来た事を実感したのだった。 

 

 

  改札の前まで歩いた真司はバッグの中からパスモの定期券を取り出した。

  ICカードの無い時代から帰って来たばかりの真司は、パスモに不思議な違和感を覚えている自分に思わず苦笑する。 

 

 懐かしいな・・ ゲート入口のセンサーにパスモをかざしながら真司は思った。 

 

 真司がゲートを通過しようとした瞬間、ブザー音と共にセンサーのLEDが赤く発行してゲートの扉が閉じた。 

 

 真司は一瞬、天王寺駅での逃走劇を思い出して動揺したが、清算する現金を所持している今の真司にそれは大した問題ではなかった。 

 

 パスモが期限切れである事に気づいた真司は、それと同時に自分が帰って来たこの世界が、「あの日」から約二ヵ月後の世界である事を知った。 

 

 この世界が本当に「自分が帰れる世界」なのかどうか確かめる術を持たない真司は、すぐに帰宅する勇気が持てなくなった。 

 

 真司は夕暮れまで一人雑踏の中を徘徊した末、家族のいる自宅へ帰った。 

 

 「ただいま・・」 

 

 行方不明になった日と全く同じ格好で帰宅した真司に出迎えた両親と小学生の妹は、最初幽霊でも見たような形相をしたが、本当に真司が帰って来た事実を受け入れると涙を流して喜んでくれた。 

 

 真司も泣いた。

  もう二度と会えないと思っていた家族との再会と、やっと自分の帰るべき場所へ帰れた安心感で涙が止まらなかった。 

 

 

  自分の失踪の件について真司は、あの日の一週間後から「捜索願い」が出されていた事を家族から知らされた。 

 

 警察を始めとする周囲の認識としては、当初は受験のストレスによる「家出」ではないかという方向性で考えられており、誰一人目撃者が現れない状況が一ヵ月を過ぎた頃から「自殺説」が有力になってき来ていたという事だった。 

 

 真司の二か月間もの失踪について結局家族や学校の関係者は、受験のストレスに悩んだ末の「家出」という結論で落ち着いた。 

 

 当然、それは真司にとって不名誉な幕引きだったが、事実を打ち明けた所で誰にも信じてもらえるはずがないと判断した真司は、「迷惑を掛けた」事になっている全ての人々に「深く陳謝」して回る事で一応のけじめを付けて見せた。 

 

 

  志望大学の受験を見送り間もなく高校を卒業した真司は、翌年の受験のための予備校通いとアルバイトに明け暮れる日々を送った。 

 

 二か月間の失踪の間、実際は一年間も西宮の店で働いて過ごして来た真司の人生観は、それ以前と比較して大きく変化していた。  

 

 真司に浪人生活を悲観する気持ちはまるで無かった。

  かえって貴重な時間を手に入れたと考える事が出来た真司は、そまでに無いほどよく勉強し、そしてまた、よく働いた。 

 

 真司はアルバイトの稼ぎの大半を予備校の月謝と家計への還元に費やし、自分自身のために使う事を殆どしなかった。 

 

 誰一人として直接口には出さなかった。しかし真司の周囲の人々の誰もが「失踪をきっかけに」別人のような成長を遂げた真司を認めるようになって行った。 

 

 

  忙しく過ごす日々の中で、真司はふとした拍子に西宮たちと共に過ごした過去の大阪での日々を思い出していた。

  そして、不可抗力とはいえ、またも失踪同然の形で、誰にも別れを告げる事さえ出来ずに去ってしまった事を悔やんでいた。 

 

 真司はネットの力を駆使して、自分が去ったあの日から現在までの彼らの生活の軌跡を辿り、比較的多くの情報に辿り着いていた。 

 

 真司は自分の記憶と地図ソフトの情報を照合し、親交のあった人々の店や住居の現状を調べ、ウェブページや口コミの情報を通して現在の彼らの日常を探った。 

 

 飲食店で勤務していた関係上、真司の交友関係は何らかの事業に従者している者が多く、その彼らの多くがネットを利用して自分の店の宣伝をしていたため、情報収集は比較的容易に出来た。 

 

 また真司が生活していた地域の殆どのエリアを網羅していたストリート・ビューは、その探求に更に有効なアイテムとなって力を発揮した。 

 

 真司はこの「科学の目」を有効活用しながらも、自分にとってつい最近まで「現在」だった世界の「未来」が簡単に掌握出来てしまう事には複雑な想いがした。 

 

 真司は、その小さなモニター越しに見える世界のビジョンが、飽くまで情報の断片に過ぎない事を頭では理解していた。

  しかし、それは「時の流れ」の中で永遠に繰り返されていく、「人の世の栄枯盛衰」そのものの姿を顕著に表しているようにも思えた。 

 

 自分が去ってから現在までの18年間という歳月の中、その世界で生き続けた人々の辿って来た足跡にはそれぞれの人生のドラマがあったはずであり、その末にある現在の姿がストリート・ビューに映し出されているのだった。 

 

 西宮の店が大幅にリニューアルされ店名まで変わっている事実を知った時、真司のマウスを握る手はショックで震えた。 

 

 真司は西宮の事が気になって祈るような気持ちでその新しい店の名前と住所でネット検索し、その店のホームページに辿り着いた。 

 

 その真司の知らない新しい店の経営者は、やはり真司の知らない人物だった。 

 

 それ以上の事実を受け入れる勇気が持てなくなった真司が、そこに電話する決意を固めたのはそれから半月以上過ぎてからの事だった。 

 

 電話に出たのは真司と同じくらいの年齢と思われる若い店員だった。 

 

 真司は動揺する気持ちとは裏腹に、大阪の言葉で話す相手との久しぶりの会話に、言葉に表現できない懐かしさを感じた。 

 

 電話で不躾だとは思いつつも、真司は「自分は過去にその店で働いていた者です」と名乗り、短刀直入に西宮の近況について尋ねた。 

 

 営業中の忙しい店員への一番の配慮は「用件を分かりやすく手短に伝える事」であると自分の経験からも知っていた真司は、敢えてそうした。 

 

 その若い店員は、店がリニューアルした時期と経営者が交代した時期については知らなかった。 

 

 しかし、現在の経営者が西宮の後を継ぐ形で事業主になったという事と、引退後も西宮はよく店に顔を出していたという事を教えてくれた。 

 

 「西さんは今どこに住んでるんですか?」 

 

 店員は少し間を置いてから、一昨年の秋に西宮が逝去した事を真司に伝えた。 

 

 店員は言葉を失ってしまった真司を気遣うように、引退後の西宮は亡くなる直前まで周囲の仲間たちと仲良く、そして好きな将棋に興じながら過ごしていた事などについても話してくれた。 

 

 「ありがとうございました」 

 

 真司は店員に礼を言って電話を切った。 

 

 電話越しにも店内の慌ただしい様子が伝わって来ていた。しかし、それに一切構うことなく決して自分から話を切り上げてしまおうとしなかった店員の思いやりに真司は感謝した。 

 

 西さんは安心して自分の店を次の世代に託したんだ・・ 

 

 真司はそう確信して涙を流した。 

 

 

  翌年の春、真司は難関だった志望校の受験を無事突破し晴れて大学生の身となった。 

 

 今朝も相変わらず通学の電車は混んでいて、真司はいつも通りの場所で吊革を握って立っていた。 

 

 予備校に通っていた頃の真司は生活時間が不規則だったため、むしろこのラッシュアワーの満員電車とは殆ど縁がなくなっていた。 

 

 再び、この「日課」のストレスと上手に付き合う事が課題となった真司は、同じような状況で高校に通っていた頃の事を時々思い出していた。  

 

 真司はあの冬の朝から元の世界へ帰還した日までに自分自身の身にに起きた現象についても考えていた。 

 

 『あの朝もこんな感じで学校に向かう途中にオレは「スギ」と入れ替わったんだ・・ 』 

 

 今の真司にとって、その理由はともかくとして、自分が「時間と空間を越えた事実」についてはもはや疑う余地も無かった。

  しかしそんな真司の中でも、どうしても腑に落ちなかったのが、あの服装だけが「他の誰か」と入れ替わったとしか思えない奇妙な現象だった。 

 

 真司は再びこの世界に帰還して来るまでの間、自分がスギ(と呼んだ実在の人物)の服を着た状態で19年前の大阪環状線の車内に転移したように、スギも自分の服を着た状態で19年後の山手線の車内に飛ばされていたのではないかと考えていた。 

 

 真司が着ていたその服や所持品には、明らかに直前まで「実在する誰か」に使われていた形跡があり、真司はスギという人物のについては「存在する」と考えた方が理に適っていると思っていたのだった。 

 

 しかし、それから1年後に叶ったこの世界への帰還の中で起きた現象は、真司にとって大きな喜びであったと同時に、それまでの認識を大きく覆す不可解な結果ももたらしていた。 

 

 真司が元の世界に帰って来た時、真司は失踪する直前と同じ服と所持品を身に付けていた。 

 

 自分とスギの「住む世界と服装」の両方が入れ替わっていたのだとすれば、再びお互いが元の世界へ戻るまでの間、自分がスギの服と所持品を手にしたように、スギにも真司の服と所持品を手にした期間が存在するはずだった。 

 

 つまり、真司が過去の大阪で過ごした「1年間」という時間に対して、失踪していたとされている時間が「2ヵ月間」だったとすれば、スギが真司の服と所持品を手にした状態で21世紀の東京で2ヵ月間過ごした可能性が生起する。 

 

 しかし真司の元へ戻って来た服と所持品には、全く他の誰かに使われた形跡が無かったのである。 

 

 『そもそもオレは入れ替わる直前のスギが現金を持っていなかったばかりに、電車賃を払えなくて追われる事になった』

  

  『スギが山手線の中でオレのバッグを手にしていたのなら、見たことも無かったはずのパスモを使って改札を通過した可能性まではあるにしても、その後、帰る家さえ無い見知らぬ世界の中で、使えたはずの現金を2ヵ月もの間一切使わずに過ごせたはずがない・・』 

 

 また、スギについて何の手掛かりも無かった真司が彼の生活圏を探りようが無かった事に対し、真司の個人情報が詰まった所持品を手にしていたスギが、真司の家族や学校の関係者と一切接触した形跡が無かった事も、真司には不可解だった。 

 

 『スギがオレと同じように、何の心の準備も出来ないまま突然知らない世界へ飛ばされてしまったのだとしたら、スギは「佐々木真司」という人物が、元の世界へ帰るための何らかの鍵を握っているかも知れないとは考えなかったのか?・・』 

 

 真司にとって、あの冬の朝から始まった1年間の出来事は、元の世界に帰還してから1年以上経った今でも多くの謎に満ちていた。

  

  しかし真司は、あの日々の中で積み重ねて来たスキルは自分のこれからの人生にとってかけがえのない財産となったことを信じて疑わなかった。 

 

 

  もうすぐ大学の最寄りの駅に着く。 

 

 車窓の外に目をやった真司は、ビルの陰から目に飛び込んできた眩しい陽射しに目を閉じた。 

 

 太陽じゃない?・・ 

 

 ゆっくりと目を開けた真司は「陽射し」とは全く異なった位置に太陽がある事に気が付いた。 

 

 次の停車駅を知らせていると思われる車内アナウンスに真司は驚愕した。 

 

 それは真司が今まで一度も聞いた事のない言語だった。 

 

 真司を乗せていた車両が停車し、開いたドアの外に広がる世界を見た真司は両膝を落とした。